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© Staatliche Museen zu Berlin, Museum für Asiatische Kunst(ベルリン国立アジア美術館), former collection of Hans Joachim and Inge Küster, gift of Manfred Bohms 2002, photography: Tadao Kodaira

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About “Kidai Shōran”「熈代勝覧(きだいしょうらん)」とは

巻頭にある著名な書家・佐野東洲の題字は、「熈(かがやける)御代(みよ)の勝(すぐれ)れたる大江戸の景観を一覧する」という意味。 この絵巻は、江戸時代後期の文化2年(1805)頃の日本橋通りを描いた作品。 神田今川橋(現在の神田駅前付近)から日本橋までの中央通りを舞台に、当時の町の繁栄と人々の日常生活が詳しく描かれる。 絵師は不明。 題簽(だいせん)に「熈代勝覧 天」とあることから、「地」「人」などの別巻がある可能性がある。

日本橋 熈代勝覧 題字 書家 佐野東洲 「熈代勝覧」(部分)© Staatliche Museen zu Berlin, Museum für Asiatische Kunst(ベルリン国立アジア美術館), former collection of Hans Joachim and Inge Küster, gift of Manfred Bohms 2002, photography: Tadao Kodaira

Story of “Kidai Shōran”「熈代勝覧」発見ストーリー

この絵巻は、ドイツのベルリン自由大学のキュステル教授夫妻が、親族の屋根裏部屋から見いだしたものとされ、その後ベルリン国立東洋美術館の館蔵品となった。 それ以前の経歴は不明。 ケルン大学日本学のエムケ教授などによって調査研究され、2000年に同館のミレミアム記念展示で初公開された。 日本では、2003年に江戸東京博物館で里帰り初公開された。 2009年に1.4倍サイズの複製画が三越前駅コンコースに常設され、何時でも鑑賞できる。 現在は、ベルリンのフンボルト・フォーラムに新設移転されたベルリン国立アジア美術館に所蔵される。

Famous bridge “Nihonbashi”名橋「日本橋」

日本橋が初めて架けられたのは、江戸幕府が開かれた慶長8年(1603)とされる。翌年には五街道(東海道・中山道・甲州街道・奥州街道・日光街道)の起点とされた。橋名の由来は、当時日本の政治的中心地「江戸」の中央部にあり、日本の中心にある橋という意味の命名というが、他にも諸説ある。 日本橋は、木造橋だったため、火事の多発した江戸では類焼で焼失することが多かった。しかし、明治44年(1911)にルネッサンス様式の石造二重アーチ橋に架け替えられ、その後震災や戦火によく堪えて現在に至る。橋の中央には麒麟(きりん)像があり、親柱には最後の将軍・徳川慶喜(よしのぶ)筆の「日本橋」の銘板がある。1972年には、橋の道路中央部に「日本国道路元標」が埋め込まれた。 1964年の東京オリンピック開催に合わせて造られた首都高速道路は、日本橋の上に架かっているが、その部分は2040年頃には地下へと移設され、日本橋に青空が戻って来る予定である。

日本橋

Edo period and Nihonbashi area江戸時代と日本橋地域

徳川家康が江戸幕府を開くと、本格的に城下町の建設に着手。神田山を切り崩して城前の八重洲周辺の埋め立てを行い、その東側に町人の住む地域が造成された。江戸城から隅田川にむけて開削された堀割(水路/日本橋川)に日本橋が架橋されると、交通・運輸の制度を支えた伝馬町が設立され、幕府の公文書の運送も行い通信の拠点となった。日本橋川や日本橋界隈につくられた多数の堀割は、舟運の便をなし、全国からの物産を載せた大型船を江戸前に係留。小分けした荷物が小型船に載せ替えられ、それぞれの河岸地(かしち)に荷揚げされた。

歌川広重画「東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図」天保(1830〜1844)頃 国立国会図書館所蔵 歌川広重画「東都名所 日本橋真景并ニ魚市全図」天保(1830〜1844)頃 国立国会図書館所蔵

また、日本橋地域には全国からさまざまな分野の商人が進出した。江戸店(だな)をはじめとした諸問屋が幕府や諸大名の御用を勤め、日本随一の商い場へと発展。魚市場(魚河岸)や、歌舞伎の芝居小屋、幕府公認の遊郭(元吉原)ができ、「日本橋では朝・昼・晩で三千両落ちた」と言われたほどの稼ぎ場でもあった。さらに貨幣を製造する金座と銀座も設けられ、全国から人や情報、文化人も多く集まった。財力のある町人たちは、大名や旗本御家人などの江戸在住の武家とともに江戸文化の活動を推進。そうして江戸時代後期には町人文化が花開いた。 御江戸の日本橋地域はまさに、日本全国の交通、経済、情報、文化の中心地として繁栄した場所である。

歌川広重画「東都大伝馬街繁栄之図」天保14年(1843)〜弘化4年(1847) 国立国会図書館所蔵 歌川広重画「東都大伝馬街繁栄之図」天保14年(1843)〜弘化4年(1847) 国立国会図書館所蔵